織田信長の圧迫面接 荒木村重

落合芳幾 1833年~1904年 太平記英雄伝 荒木摂津守村重

荒木村重は謎が多い人物です。なんの裏付けもありませんが、織田信長から逃れている間に本能寺の変が起こり、秀吉の時代になりお伽衆として復活してますので、黒幕グループと秀吉をつなぐパイプがありなんらかの役割を果たした可能性もあるともないともいえません。

江戸時代は織田や秀吉の話は厳禁でしたが幕末になり規制がゆるくなったのか時代を変え太平記として出版しています。芳幾は国芳の弟子ですが、明治維新後も活躍した数少ない浮世絵師の一人です。月岡芳年などと最後の浮世絵師に数えられます。



荒木村重は摂津の切り取りを織田信長に申し出ますが、会見中に織田信長より剣先に餅を突き刺し「餅をくってみろ!」と言われ見事にそれをたいらげ信長は「あっぱれ!」と言ったとかいわなかったとか。いまでも伊丹に中満という和菓子屋さんでは「あっぱれ村重まんじゅうが」売られています。

当方所有の浮世絵と同じものが伊丹市の観光パンフレットに使用されていました。

それでは織田信長の圧迫面接を再現してみましょう。

あっぱれ村重まんじゅうはまんじゅうと刀がセットになっています。お菓子で作られた刀でさえ口に入れたらきついのに真剣はさすがに無理です。検証の結果は絵本太閤記での作り話ではないかと思います。太閤記では村重は一口で食べ、信長は大喜びで摂津をまかせました。

有岡城跡をJR伊丹方面から見た景色、有岡城はここだけではなく惣構えの町ごとぐるりと取り囲んだ広大な城郭で現在も土塁が残っています。


前回ご紹介しました有岡城から護送されて七松城に連行された荒木村重の重臣の一族・下級武士たちはここで処刑されました。処刑の仕方にも格の違いがあるのか、荒木村重一族は京都六条河原で晒されて磔にされ、重臣一族は七松付近で処刑、下級武士にいたっては四つの家に押し込められ火をかけられたという凄惨なものでした。七松八幡神社にはこのときの慰霊碑が建立されています。


織田信忠が尼崎城を攻めるために七松城を陣とした。有岡城の捕虜として連れられた家臣やその家族は処刑されたり一室に押し込められ火をかけられた。村重の一族は京都六条河原で処刑されました。一方尼崎城・花隈城の開城を拒んだ村重は尼崎城から花隈城、さらには毛利を頼り尾道に亡命しました。

荒村寺(こうそんじ)・・ここには荒木村重の位牌がありますが、中には入れないようです、昭和の整備により移設させられました・・

西側の上臈塚砦の周辺にある墨染寺にある女郎塚・・


同じく荒木村重の墓と伝えられる九重の塔、境内にはなんの説明もありません・・

村重は利休十哲の一人で茶人として復活しますがキリシタン大名を讒訴したり秀吉の悪口を言ったのが露見したりで出家します。

大江戸浮世絵美術館

江戸後期・明治の私設美術館です、美術品は管理人の所有物です、画像をクリックすると詳細・関連作品が閲覧できます。    河鍋暁斎や歌川国芳が大好きで、蒐集・研究しています。あわせまして幕末タイムトラベル!というHPもやっています。 ご連絡・ご要望はコメント欄よりお願いします。

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