橋本周延 西南戦争

橋本周延 天保9年8月8日〈1838年9月26日〉 - 大正元年〈1912年〉9月29日)

西南戦争は西郷の人気も高く賊徒としながらも、おおいに売れたようです。

元は幕府方で上野戦争や函館戦争に参加して新政府軍と戦った周延は西南戦争をどう感じていたのでしょうか・・明治10年9月頃の戦況を錦絵にしたものか・・浮世絵では揚州周延と号し、豊原国周に師事し、酔って国周にからんだ河鍋暁斎を真剣で追い回したエピソードがあります。



地図を見て作戦をたてる西郷隆盛、西郷の写真は一枚も無いといわれています、明治天皇に頼ま

れても写真を拒みました。後ろは前原一格・・

周延は実際に見た事があるのかもしれません、西郷の雰囲気が凄く出ています。      


こちらは桐野利秋・・手前は池上四郎・・後ろの女性は西郷の末弟、戦死した西郷小兵衛の妻


西郷隆盛は鹿児島の地図を持って考え込んでいますが、桐野は西郷を見ていません、すでに戦況をみて覚悟を決めているのか・・

徳川はまだ十分戦えたのに徳川慶喜が大阪城から逃げ出し瓦解した幕府軍、時代は変わり、不平士族を見捨てる事ができずに立ち上がった西郷隆盛、おそらくは尊敬の念を持って描かれたのでしょう、敗退を重ねて鹿児島に戻った西郷を威厳をもって描いています。


楊洲周延は主に明治期に活躍した浮世絵師です、大変興味深いのは文化的面からは、歌川国

芳、三代歌川豊国(国貞)、豊原国周(くにちか)の門弟となり浮世絵を学び、武士としては幕府側で戦ったおそらく唯一の浮世絵師です。


西郷は中央政府のスナイドル銃の弾薬工場の略奪や西郷暗殺計画で反発した私学校に担がれて

進軍しました、賊軍なのに人気で錦絵が飛ぶように売れて、ニュース速報的な錦絵はたくさんの種

類が出版され粗悪な作品が多い中で、楊洲周延の作品は格調高くドラマのワンシーンのように構成

されています、鹿児島では今でも西郷さんは人気で敬愛されています。


高田藩の江戸詰め下級藩士だった周延は第二次長州征伐、彰義隊での上野戦争、神木隊、箱館

戦争に参加、脱出して禁錮刑を受け、いつしか東京で浮世絵師として活躍します、ベストセラーとなったのは江戸時代も忘れかけようとする頃に大奥や徳川幕府の内向きの行事を描いて好評を博しました、得意分野は西南戦争等の戦争絵、大奥の行事等をテーマにした美人絵です、写真が主流になる中を生き残ったのは、周延しか描けないテーマを扱った事とニュース速報的な要素を巧みに描いたからでしょう・・・・ 


新政厚徳・・厚き徳を持って新しい政事を行う・・西郷が掲げた政治の信念はどう受け継がれたのでしょうか。大久保は西郷を倒しましたがそれは薩摩閥の弱体化と自ら刺客に襲われるという因果応報を生み出しました。

大江戸浮世絵美術館

江戸後期・明治の私設美術館です、美術品は管理人の所有物です、画像をクリックすると詳細・関連作品が閲覧できます。    河鍋暁斎や歌川国芳が大好きで、蒐集・研究しています。あわせまして幕末タイムトラベル!というHPもやっています。 ご連絡・ご要望はコメント欄よりお願いします。

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