葛飾北斎 椿説弓張月 後編
葛飾北斎 宝暦10年9月23日(1760年10月31日)- 嘉永2年4月18日(1849年5月10日)
曲亭馬琴作、北斎画の読本で八犬伝より有名だった。
この北斎の和本は1万円程でネットオークションで落札しました、
参考文献 平岩弓枝 椿説弓張月
葛飾北斎画、滝沢馬琴作の椿説弓張月です、江戸時代のオリジナル和本で、源八郎為朝(みなもとのはちろうためとも)の生涯を描いた伝奇小説で為朝は伊豆の大島で討ち死にしたのが保元物語にありますが、馬琴はここでは死なさず、琉球に渡り、紆余曲折の末、妖術を使い王位を奪った妖僧曚雲(もううん)を為朝と息子舜天丸(すてまる)で破り舜天丸は王位についた、・・・・
史実は入っているものの大島から琉球の話は荒唐無稽で面白く北斎は妖怪や妖獣、怪獣、妖僧、神々、幽霊をあます事なく書いています
椿説弓張月後編巻之三 朝稚笛を破て父の愛をうしなふ
椿説弓張月、後編の3巻です、伊豆の大島から脱出するくだりが書いています、木版挿絵は馬琴が文章と画面構成を決める下絵を書き、後から北斎が絵の清書をして彫師や摺師、字彫り職人の手に渡り本ができます。
当時本の原稿料は驚くほど安く印税も無いので、何千冊売れてもたかがしれていました、北斎と馬琴は天才どうしでソリが会わなかったのか喧嘩別れします。
大凧の計略・・大島から島の女性ささらえとの間にできた子供、朝稚(ともわか)を大凧に乗せて、伊豆大島より脱出させ足利家の養子にする計略、為朝から手渡された笛を落として粗相をした朝稚をこらしめの為、大凧にくくりつけて空に飛ばして糸を切る、この朝稚は後の足利将軍家につながる設定となっています・・・
無事に下田の浜辺に到着して、足利家の時員と言う武将が烽火で合図をしている場面・・・
実はささらえと鬼夜叉は為朝と梁田二郎時員(やなだのじろうときかず)が官軍が襲ってくる前に凧で飛ばし脱出させ足利家の嫡男として貰い受ける計画を事前に知っていたが、事が成功するまでは知らないふりをしていた。
為朝が茂光、忠重の軍船に向かい矢を射ると矢は大船の腹を串刺しにして沈んだ・・
※為朝の大嶋での妻ささらえは為朝の子の為丸、朝稚、嶋君を生んだ、忠重はささらえの実父
襲来した官軍の前に、為朝の妻と嫡男、為頼が自決して家来の鬼夜叉は二人の首を打ち落とす・・
鬼夜叉は為朝の身代わりとなり館に火を放ち腹を切る・・
鬼夜叉は為朝の身代わりになるべく館に火を放ち腹を切った・・
左より為朝、嶋君、ささらえ(幽霊)為頼(幽霊)四郎五郎
船底で娘の嶋君を見つけ、守り袋のささらえの遺書を見て二人が亡くなったのを悟り、島君と共に
死のうとするが、妻と為頼の亡霊に導かれた四郎五郎に止められる。
この達磨の絵は北斎の展覧会でロビーに飾ってあった巨大な絵です、もちろん本物ではなく、この展覧会用に下絵をもとに復元された作品です。
葛飾北斎の生涯はドラマ・小説・漫画で描かれる事も多いのですが、そのほとんどが飯島虚心の葛飾北斎伝から引用されています。この本は飯島虚心が北斎死後、40年後にその当時生存している北斎の関係者を訪ね歩き聞き書きをして、当時の文献も加味して一冊にまとめた本です。飯島虚心本人も面白い人物で榎本武揚と回天丸で江戸湾を脱出して新政府軍と箱館で戦い、五稜郭陥落時に捕虜になった経歴をもつ異色の作家です。
虚心が北斎の遺族を捜しますがすでに所在不明で誓教寺のお墓にも線香の一本の煙もたっていませんでした。狂言作者の四方梅彦、浮世絵師で北斎門下の露木孔彰、2~3回北斎に会ったという考証家の関根只誠、戸崎某氏、その他は文献や手簡から材を得ています。
画工北斎奇人也。年九十而移居九十三所。いきなりの奇人扱いで始まります。北斎が亡くなってすでに40年経ての伝記ですが、実際に交流があった人物からの情報ですので北斎研究の一級資料となっています。
実物大で再現された北斎の達磨図、畳120畳の大きさで福岡市博物館の天井から吊り下げられています。文化十四年西掛所の東庭にて大達磨を描いています。この場面は葛飾北斎伝にも挿絵入りで紹介されています。
愛知県名古屋市中区門前町1-23に今もあります、浄土真宗のお寺、本願寺名古屋別院には文化14年(1817年)に葛飾北斎が120畳の紙に大達磨を描いた記録が残っています。この大達磨は保管されていたものの戦災で焼失しています。以下挿絵は飯島虚心の葛飾北斎伝からの抜粋です。
東都の画工葛飾北斎が西掛所の境内で大達磨を即書きすると各書店で宣伝すると当日一目見ようと群衆が押しかけました。西掛所本堂の東北にある集会所の前の庭に席を設けて、杉丸太でませ垣(低い垣根)を組んで、120畳の料紙(和紙)をしきました。この紙の下には籾殻をしきました。紙の大きさは縦幅十間(約18m)、横幅6間(約11m)ありました。
すり鉢ですった墨を大きな桶に入れ、門弟一門とタスキをかけて袴の裾を高く上げ、藁一束でできた筆で鼻を書き右の眼、左の眼、口、耳、頭を書き、胸のあたりまで書いた後は蕎麦売を一束にした筆で毛書用として月代、髭を書きました。薄墨に棕櫚帚をつけくまどりとし、ぼかすのには手桶の水で棕櫚帚を用いました。彩色は顔料を薄く溶いて手桶に入れて棕櫚帚で塗り、これを門人が手桶の水でちらした。
西掛所の集会所の軒に沿って杉丸太の足場を作り、両方の端の丸太の上から滑車で吊り上げました。昭和の映画「北斎漫画」では、見物人が山門に上がり地面にある達磨図の全体像を見下ろして感嘆する場面となりますがまちがいです。実際には持ち上げていますのでおそらくは墨が垂れないように乾くまで待って持ち上げるまで半日はかかったと思います。
余談ですが福岡ドームでダイエーホークス戦が始まる前のイベントで有名な書道家の武田双雲がアリーナに巨大な紙を敷いて「鷹」の一文字を書きましたが、試合前の30分くらい前からのイベントで乾く時間も無く書いた後にすぐ持ち上げて持ち帰る際に墨が垂れてひどい状態になっていました。
文化十四年、丁丑十月五日、名古屋西掛所内に於いて、東都の画工北斎戴斗、半身の達磨の像を画く。此日見物の人、群をなす。某縮図の摺物、永楽屋東四郎が店にて商なふ。則ちこれを求めて、後日の談柄とす。北斎はその砌半年程、鍛冶屋町牧助右衛門墨遷の家に寓居す。
★注・椿説弓張月は筆者所有和本より引用の為転用可。
◆葛飾北斎伝エピソード◆
北斎は長じて勝川春章の門人となります。高弟の勝川春好と仲が悪く、ある時春朗(北斎)が絵草子問屋の看板を画きますがこの絵を見た春好がこれを掲げるは師の恥となると引き裂いて捨ててしまいます。これに奮起した北斎は狩野派の画法を学び恥辱を晴らします。後日北斎は私の画法が発達したのは実に春好が私を辱めたからだと語った。狩野派に出入りするようになり師匠の春章より破門されました。
天明5年、名を群馬亭と改め、またその後に菱川宗理と改め狂歌の摺物を専業にしますが生活は困窮します。唐辛子売りを副業にしますが売れずにやめます。また柱暦を売り歩きますが浅草蔵前にて勝川春章夫婦と行き会い大いに面目を失いました。
ある時5月幟の注文があり、朱を溶いて鍾馗の図を画くと先方は大いに喜んで2両をはずんでくれました。困窮していた宗理はこの金を得て後は志を変えて朝早くより筆を取り遅くまで画き続け蕎麦二杯を食して就寝しました。
寛政初年より山東京伝や曲亭馬琴の挿絵を画いていました。寛政5・6年の頃、狩野融川とその門人及び町絵師数名と日光神廟の修復に行き、宗理(北斎)は随います。融川は宇都宮で旅館の主人から絵を請われて童が竿を持って柿を落とすの図を画きます。
北斎はこの絵を見て、柿に届いているのに更に上に竿があり爪先立っているのはおかしい。と密かに評しました。これは融川の耳に入り、融川は童子の知恵がなくあどけない様子を描いたのにこれを誹るのは憎むべしと宗理を追い出しました。
この狩野融川は浜町狩野家を継ぎ法眼まで叙されますが、朝鮮へ贈呈する屏風を手掛けた時に老中に金泥が薄いと注文をつけられて納得いかずに帰りに腹を切ります。一旦は引き取って多少の修正をして再提出することを良しとはしませんでした。
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