狩野芳崖 雲上観音菩薩図
文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)
芳崖の落款・・・・雅道(ただみち)印
最近入手した狩野芳崖の観音図を紹介します・・・
芳崖の家系は狩野派の絵師で代々長府藩の御用絵師を務めました、
木挽町の狩野家の塾頭を務めたり、橋本雅邦と龍虎と並び称されました
狩野派は明治になると御用絵師という役目を終え、消えていく運命にありました、芳崖も類まれなる技術や才能を持ちながら貧困にあえぎました・・・・・
切手にもなった大傑作の悲母観音像は1888年亡くなる前にかかれました、フェノロサに見出さ
れ東京藝術大学の教官に任命されましたが、務める事は無く亡くなりました、同じように暁斎も次の
年に亡くなっています・・・・
共箱、共書は無し、鑑定書なし、箱は合わせ箱です・・・・真贋は不明です、
作品はパステル調で観音様は普通は性別が定かではなく、口ひげが書き込まれていたりしますが、この作品はどうも女性として描かれているようです、書き込みは少ないですがそれなりに満足のいく掛け軸です。
これは狩野探幽の傑作、南禅寺の水呑みの虎。南禅寺の襖絵は徐々にデジタルプリントに変更されて本物は保存されるようになりました。この絵はまだ本物が健在です。現代では粉本主義と言われ狩野派は工芸品のような言われ方をしますが、それは現代人が言っているだけで江戸期を通して王者として君臨しました。狩野永徳の時代は長谷川等伯・久蔵がいてかならずしもトップではなかったかもしれませんが、探幽の時代は無敵でした。いつかこの部屋の真中で観賞したいです。
木挽町狩野の芳崖は1888年、駿河台狩野派の河鍋暁斎は1889年に相次いで亡くなり
狩野派と言える絵師集団は実質上終焉しました、ただひたすら狩野派であり続けた芳崖は不遇な
時期もながくありました、それに比べて暁斎は国芳ゆずりの浮世絵・戯画で世間に大人気でお金には困る事は無かったようです。
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