落合芳幾 本應寺大合戦之図
落合芳幾 1833-1904 歌川国芳門下で役者絵や美人画をよくした。
明治以降は東京日日新聞の挿絵や東京絵入新聞のを創刊し錦絵新聞ブームを作った。
落合芳幾作 太平記之内本應寺大合戦之図(1861文久1年)江戸時代には規制がきびしく徳川家に関する絵は禁止されていました。
この絵も誰が見ても織田信長の本能寺の変ですが「織田信長」→「太田平春永」に
わざと変換して規制をかわしています。また「森蘭丸」→「保利蘭丸」
また信長に一番槍をつけたと言われる「安田作兵衛」→「安田宅兵衛」
と変換しています。
本能寺の変は1582年に起きた日本の歴史上最大の下克上でありテロ事件です。織田信長は自らが擁立した15代征夷大将軍足利義昭を追放し、抵抗勢力もあと少しで殲滅する直前に、毛利攻めに苦慮する羽柴秀吉からの応援要請に応えて明智光秀の大軍勢を差し向け、光秀に見事に裏切られて本能寺で自刃しました。
この絵は1861文久1年に書かれていますが前年に桜田門外の変がありこれを暗示しているのかもしれません。足利幕府は織田信長にいずれ取って代わられる運命にあったのですが、この事件の後、山崎の戦いで光秀に勝利した羽柴秀吉が関白、豊臣秀吉として天下を取り、足利幕府は将軍職返上で幕を閉じました。ちなみに足利義昭も15代、徳川慶喜も15代で不思議と同じような運命を辿っています。義昭も慶喜も将軍引退後は貴人として悠々自適のエンジョイマイライフを送っています。
安田国継(安田作兵衛)明智三羽烏の一人、明智光秀の重臣の斎藤利三に仕える本能寺の変(1582年)では織田信長の首は取れなかったものの一番槍で負傷させ森蘭丸も打ち取ったとされる。山崎の戦いにも参加して敗退するも、後日羽柴秀勝・秀長に仕え豊臣方で活躍した。後年、織田信長の命日に自害した。
本能寺の変の真相はいまだに確定していません。確たる証拠も無いので、憶測だけでいろいろな説が飛び交い大喜利状態です。以下は私が推理した内容でなんら真実ではありません。
家政婦は見た!本能寺の変の真実
1582年、本能寺の変が起きる数日前、明智光秀は細川藤孝と相談していた。
光秀「最近信長様が俺に秀吉の毛利攻めの応援を命令したんだよね・・」
細川「えーっ!それって秀吉の信長様助けての演技じゃん!」
光秀「そやねん!秀吉のやつ、信長様に甘えて自分をかわいがってもらおうと・・」
細川「やめときやめとき!」
光秀「断ったらどんな仕置きされるかわからんがな!」
細川「しゃーけど、信長様は本能寺でのほほんと茶会開いてんのやろ」
光秀「それやがな!秀吉の応援にのったふりして信長様を本能寺でしばいたろか!」
細川「勝家兄さんもおらんしええけど壁に耳あり障子に目ありやで。」
光秀「冗談やがな、でもそんときは頼むで」
その時障子の裏で聞き耳をたてていた細川家の家政婦はさっそく早馬と船を飛ばし
中国方面に向かった、そこには京都を追放された足利義昭と荒木村重がいた
早速、黒田官兵衛を呼び寄せ謀反が起こる兆候があり、早々に毛利攻めを
切り上げ中国大返しの準備をせよとけしかけた。
黒幕は足利義昭で光秀に事前に信長暗殺命令を密勅をエサに出していて、自らは光秀の養護のもとに将軍復権を目論んでいた。それなのに情報を秀吉にリークしたのは明智が京都を掌握して味方を増やしても実力者の秀吉が残れば思い通りにならない。毛利と和睦したと見せかけて京都に引き返すところを毛利と明智で挟み撃ちにして全滅させる作戦をたてた。
毛利側の外交僧である安国寺恵瓊にその作戦を伝えた。秀吉は安国寺恵瓊は謀反の件は知らないと思い、戦を毛利側に破格の条件で和睦で終わらせた。安国寺恵瓊は謀反が確認できた時点で追討作戦に打って出ようとしたが明智光秀は誰も味方になろうとはせず、頼みの細川まで動かない。細川藤孝は近在の武将まで味方しないように根回ししたようだ。
細川「光秀ごめん、これはやっぱりあかんやつや。万が一信長様の首が
とれんなら俺たち終いやで」
こうして予想外の高速中国大返しと秀吉が流したデマ、
秀吉「信長様は生きてはるで!」疑心暗鬼を生じた安国寺恵瓊は動けず
さらに光秀に従う武将はいなくなった。
実は秀吉が作った本能寺の秘密の抜け穴は爆破されて分からくなり、秘密の地下室で信長は生きて救助を待っていたが、助けに来たはずの秀吉に殺害されていた。
・・・実はシナリオは秀吉の部下黒田官兵衛がしかけた光秀おびき出し陽動作戦だった。黒田官兵衛が足利義昭に情報を流し光秀に謀反を起こさせたのであった。
秀吉「官兵衛お主も悪よのう(俺が天下を取ったら左遷してやる・・・)」
官兵衛「秀吉様こそ・・(次は俺が天下を取る番だ)・・」
・・・・・・ 完 ・・・・・・
実際のところ光秀の人生は謎が多く、前半生はほとんど判明していませんし、謀反の動機も本人野望説や黒幕説など誰もわかりません。現実的に見て取れるのは、光秀は権謀術策に優れていて、松永久秀や荒木村重を上回る変節漢であった。秀吉との出世競争では後塵を拝した。本能寺の変後に細川や筒井が光秀陣営に加わらなかった事は日頃から人望が無かった証であり、ましてや主殺しの大悪人を支援するものは多くはなかった。かくして秀吉は主殺しの敵討ちの大義名分で大軍勢となり山崎の戦いで勝利した。
織田信長が軍事的に孤立した状況で本能寺に、後継者の信忠も近隣の妙覚寺に滞在していた。秀吉毛利攻めの応援部隊として明智光秀が支援に向かう手筈であったが本能寺を襲い
ました。絶対的に信頼していた部下に裏切られた信長親子は非業の死を遂げました。
黒幕はいないと仮定して、秀吉はもちろん自分から要請した毛利攻めの支援で京都がどのような状況になるかは把握していたと思います。引金を引いたのは秀吉であることはまちがいありません。
0コメント